1番センター赤星 背番号「53」がいなくなってから

赤星さんの「決断」

赤星さんが引退するまでは、私の「好きな選手」はダントツでレッドスターでした!
2009年9月12日の横浜戦で、内川選手の飛球にダイビングしてピクリとも動けなくなり、背負われて退場してから3か月後に引退会見・・・。

赤星選手が試合に出ていないだけでショックでしたが、その上、引退なんて言われても耳を疑うばかりでした。

翌年から甲子園で赤星さんの名前がコールされなくなりました。

一気に阪神タイガースの試合を観る気力がなくなったのを覚えています。

2001年、新庄選手の抜けた穴を埋めると宣言して阪神に入団した赤星選手。

それから2009年まで怪我や故障で離脱したときを除けば、阪神不動のセンターフィールダーでした。

私の耳には「1番センター赤星、背番号53」というアナウンスが今も残っています。

中心性脊髄損傷の瞬間

2009年9月12日の試合で内川選手の飛球にダイブした時の状況は赤星さんの著書に詳しく書かれています。


 0対0で迎えた3回表、福原が突如コントロールを乱し、3つのフォアボールで2死満塁のピンチ。迎えるバッターは2008年セ・リーグの首位打者で、この年もリーディングヒッター争いの上位に名を連ねていた内川聖一だ。
 ちょうど、内川が足を痛めているという情報があったので、
「引っ張って左中間に強い打球は来ないだろう・・・」
「ミートに徹してくるだろうから、頭を越される可能性も少ないな」
 と自分なりに状況判断した僕は、定位置より少し前、やや右中間寄りにポジションを変えた。
 カウント2ストライク1ボールからの4球目、内川の放った打球は思ったとおり右中間方向へ飛んできた。
 捕れるという確信はあった。前もってポジショニングを変えていたことも、その思いをさらに強くしていた。ところが、思ったよりも打球がライト方向に切れていく。打球を追いながら、捕れるかどうかギリギリのところだと思った。
「絶対に捕らないと・・・」
 そう思ったのが早かったのか、体が反応したのが早かったのか、僕は無意識のうちに打球に向かって飛び込んでいた。差し出したグラブのわずかに先を打球がすり抜けていく。次の瞬間、自分の体が芝の上に叩きつけられたのを感じた。
「くそっ!捕れなかった」
「早く・・・早くホームへつないでくれ」
 と思いながら打球が抜けていった方向を見る。ライトを守っていた浅井良が打球を追う姿が見えた。でも、目で追いかけることしかできなかった。
 足を動かそうと思ったのだが、動かない。
 こんなことは初めてだった。冷や汗が体を伝う。倒れたままピクリともできない。僕の周りに人が集まってきた。「これはやばいな」と思いながら必死にもがこうとすると、金縛りが解けたように足が自分の意思に反応しだした。ホッとすると同時に、今度は手に尋常じゃない痛みがあることに気づく。
「痛いっ!」
 支えてくれていたトレーナーの手を無意識のうちに振り払っていたが、足に力が入らず自分だけでは立っていられない。手をだらりと伸ばしたまま覆いかぶさるようにして担がれるしかなかった。ライト側アルプススタンドの横の通路からグラウンドを出て行ったのだが、このシーズン中、すでに2度の登録抹消で、チームに迷惑をかけていたこともあり、ファンの反応が怖かった。
「しっかり捕れよ!」「またケガか!」というようなことを言われるのではないかと思っていたところ、
「惜しかったぞ!」
「よく飛んだ!」
 罵声を浴びせる人は一人もいなかったと思う。ファンの方の気持ちが温かすぎて逆に辛かったぐらいだ。ありがたいと思う気持ちと、申し訳ない気持ちが入り混じって、僕はただ頭を下げるしかなかった。

引用:「決断」赤星憲広著17ページ

このプレーの後、救急車で病院に運び込まれた赤星選手に言い渡された診断結果は「中心性脊髄損傷」という重いものでした。
受傷直後、一時的に足が動かなかったことや手の強い痺れというのは、この「中心性脊髄損傷」の典型的な症状だそうです。

球団からの引退勧告

寝返りも打てない、痛みで一睡もできないという状況をも不屈の精神力で乗り越え、必ず復帰する!という信念を持ってリハビリに励んでいた赤星選手に球団から突きつけられたのは「引退勧告」ではなく「引退通告」でした。

ケガからまだ1か月しか経っていないのに何がわかるんだ?

赤星選手はそう強く思ったのですが

結局、球団側の「通告」は、その後、何をしてもどうあがいても変わることはありませんでした。

生涯阪神タイガースの選手として野球人生を全うすると決めていた赤星選手にとって

突然の「引退したほうがいいんじゃないか」という言葉は

「死んだほうがいいんじゃないか」「死んでくれ」と言われているに等しかったといいます。

「他球団に行くことは考えているのか?」と球団に聞かれて、初めてそういう選択肢もあるのかと思った程度で、阪神の赤星として復活したい!という思いしかなかったのだそうです。

常に100%で戦う

他の選手は70%の力でシーズンを戦うことで、全試合でプロとしてのパフォーマンスを出せるのであれば

赤星選手は体が小さいというハンデがある分、常に100%の力を出して戦わなければ、プロでは通用しない!という思いが強かったといいます。

ケガから復帰してもう一度センターの守備につき、9月12日と同じ状況に立たされたときに、自分はためらわずにダイブできるのか、そう自問自答したら

「もう飛び込めない気がする」

そう思ったときに球団からの引退勧告に応じるしかないのかもしれない、と決断されたようです。

これほどまでの功労者にケガからたった1か月で「クビ」を宣告するなんて、なんて冷酷な球団なんだ阪神タイガースは!と正直なところ著書を読むと感じてしまいます。

赤星さんの言うように「いっしょに最善の方法を探してみよう」と言ってもらいたかったです。

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まだ33歳だったから、最低でも1年は待ってあげて欲しかったし、もし先発としての復活は無理だとしても、代走でも出られたんじゃないの!と思います。

なんで「即クビ」だったのか、いまだに意味が分かりません。

まだ赤星2世は出てきていない

赤星さんが引退してからもう10年が経とうとしていますが、53番という背番号こそ俊足の島田海吏選手に引き継がれたものの、赤星2世はいまだに誕生していません。

2001年度の阪神入団時、大学時代につけていた「9」、社会人時代の「8」、シドニー五輪の「26」という3つの背番号はいずれも空き番号でしたが

球団がドラフト4位の赤星選手に渡した背番号はこれまで全く縁のなかった「53」でした。

社会人時代のチームメートたちからは「53」という数字は「ゴミ」とか「誤算」と読めるからよくない番号だと言われたこともあり、入団当初は嫌で仕方なかったそうです。

球団が、若い数字の背番号を渡すルーキーというのは、それだけ期待も大きいわけですから、そういう意味でも自分は期待されていないのかなという気持ちになったのもうなずけます。

しかし、赤星選手が「この背番号で活躍していつか見返してやる!」という気持ちが逆に反骨心に火をつけ活躍を後押する結果に繋がったのかもしれませんね。

球団からは2度、「8」などの若い背番号への変更を打診されたそうですが、いずれも断り続け、今では「53」と言えば「俊足巧打の1番バッター!」の代名詞になっていると言ってもいいかもしれません。

それだけに、島田海吏選手は大切な背番号を背負っていることを肝に銘じて活躍してもらいたいものです。

あとがき

赤星選手は著書の中で

 東京ドームやナゴヤドームのように、内野に人工芝を敷いている球場と甲子園球場やマツダスタジアムのように土の球場では、盗塁のしやすさ、走りやすさにおいては天と地ほども違う。
 人工芝の球場ではスタートが多少悪くても、走り出してしまえばスピードを上げながら二塁ベースまで行くことができる。しかし土の球場の場合は、二塁までの走塁がずっと土なので、スタートで失敗してしまうとなかなか取り戻せない。

と語っています。

そこで登場するのが「甲子園の神整備、阪神園芸さん」ですね。

赤星さんがスタートを切りやすいように、1塁から数メートルは土が硬く整備されていたそうです。

一方、長年甲子園のショートを守って来た鳥谷さんから、内野の土について阪神園芸さんが注文を受けたことは一度もなく

そこは「弘法筆を選ばず」を地でいく感じが鳥谷さんらしいですね。

どんなグラウンドでも捕る!

それが本当のプロの守備なんでしょうね。

やっぱり大好き

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Posted by どらみ